2008년 4월 30일 수요일

[신천지] 救いを受ける血と肉とお祈り

本当に正しく知ろう。新天地

この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。

救いを受ける血と肉とお祈り

聖書の言葉はすたることがあり得ない(ヨハ10:35)、書物に書かれていることにしたがって審判を受ける(啓20:12)。審判の結果は天国と地獄である。
イエス様はわたし達の罪をあがなうため、代わりに十字架につけられ、イエス様の血と肉を食べる者はあの日(最後の日)に再び蘇らせると仰せられた。そして、イエス様の御名によって願うことをかなえて下さると仰った。(ヨハ6:51~57、ヨハ14:13~14、ヨハ16:13、26)
わたし達の十字架を代わりに負って下さった、義人でいらっしゃるイエス様の血だけがわたし達の罪をあがなうことが出来るし、イエス様の御名によって祈ることだけがかなえられるのだ。そして、イエス様の血と肉だけで救いを受けることが出来、イエス様の約束である新約を守ることで救われるようになるのだ。これ以外、誰の血でも肉でも救いを与えてくれることは出来ないし、イエス様以外、他の名では求めたことを与えられることも出来ない、かなえて頂く方法もないのだ。

イエス様の言葉を無視をし、イエス様以外人の血と肉を食べても救われる、イエス様以外の人の名によって求めても叶えられるというのは異端の仕業で、悪魔の考え方なのだ。悪魔と一つになった者も悪魔の所属であることを忘れてはいけない。この事実が判断出来ず、イエスではない人の血と肉を食べて救われると言い張って、また他の人の名で求めても叶えられると言っている者を本当だと言いながら彼らと一つになっている人たちは異端なのか、正統なのか?
イエス様の御言葉を信じる本当の聖徒なら、判断してみてほしい。イエス様の血と肉(ヨハ6:51~57)ではなく、人の血と肉を食べても救われると言い張ったり、イエスでもない人の名で祈って叶えられると言い張っていた者を新天地では追い出した。あの追放された者と一つになった人々が追い出した教会と牧師のことを異端だとゼミをして誹謗している。誰が本当の異端であって、誰が主を信じる者なのか。そして迫害や呪い、計算、誹謗、偽りを知れ渡っている方が御霊の戒めなのかを判断してみなければいけないのだ。

出所 : http://cafe.daum.net/scjschool

[신천지말씀] 구원받을 피와 살과 기도

진짜 바로알자 성경과 신천지

이 글의 내용은 교회들과 성도들의 신앙 지식을 위한 공익적 목적으로 성경에 입각하여 기록한 것이다. 또한 이 내용들은 교회들과 성도들의 참 신앙을 위해 ‘옳은 것은 옳다 하고 아닌 것은 아니다 하라.’ 하신 예수님의 말씀(마 5:37)에 입각하여 기록한 것이다.

구원받을 피와 살과 기도

성경은 폐하지 못하나니(요 10:35), 자기 행위에 따라 책에 기록된 대로 심판받는다(계 20:12). 심판의 결과는 천국과 지옥이다.

예수님은 우리의 죄를 사하기 위해 대신 십자가를 지셨고, 예수님의 피와 살을 먹는 자는 그 날(마지막 날)에 다시 살린다고 하셨다. 그리고 예수님의 이름으로 기도해야만 구한 것을 받게 되고 주신다고 하셨다(요 6:51-57, 요 14:13-14, 요 16:13, 26).
우리의 십자가를 대신 지신 의인 예수님의 피만이 우리 죄를 사할 수 있고, 예수님의 이름으로 구해야만 그 구한 것을 받을 수 있다. 그리고 예수님의 피와 살로만 구원받을 수 있으며, 예수님의 약속인 신약을 지킴으로 구원받게 된다(요 14:21-24, 계 1:3, 14:12 참고). 이 외 그 누구의 피와 살로도 구원받을 수 없으며, 예수님 외 그 누구의 이름으로도 구한 것을 주시지 아니하며 또 받을 수도 없다.

예수님의 말씀을 무시하고 예수님 외(外) 다른 사람의 피와 살을 먹어야 구원받는다는 말과, 예수님 외 다른 사람의 이름으로 구해야 그 구한 것을 받는다고 말하는 것은 이단 행위요 마귀 사상인 것이다. 마귀와 하나 된 자도 같은 마귀 소속임을 알아야 한다. 이 사실을 판단하지 못하고, 예수님이 아닌 다른 사람의 피와 살을 먹어야 구원받는다고 주장하고, 또 다른 사람의 이름으로 구해야 그 구한 것을 받는다고 한 자를 참이라고 하여 그와 하나 된 자들은 이단인가, 정통인가? 또 일제 시대에 이방 신에게 먼저 절한 후 예배드렸던 그 곳으로 개종시키는 곳이 이단인가, 정통인가? 예수님의 말씀을 믿는 참 성도는 판단하기 바란다(고전 10:15 참고). 예수님의 피와 살(요 6:51-57)이 아닌, 다른 사람의 피와 살을 먹어야 구원받는다고 주장하고, 예수님이 아닌 다른 사람의 이름으로 기도해야 구한 것을 받는다고 주장하는 자를 신천지에서 추방하였다. 그 추방된 자와 하나 된 자들이 추방한 교회와 목자를 이단이라고 세미나를 통해 비방하고 있다. 진짜 누가 이단이며, 누가 주를 믿는 자이겠는가? 그리고 핍박과 저주와 헤아림과 비판과 거짓말을 유포하는 것이 성령의 계명인지 판단해야 할 것이다(마 7:1-5, 5:10-12, 눅 6:37-38).

출처 : 바로알자 신천지 http://cafe.daum.net/scjschool
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2008년 4월 29일 화요일

[신천지] 霊的な結婚と肉的な結婚

本当に正しく分かりましょう。新天地

この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。

霊的な結婚と肉的な結婚

● 肉的な結婚
創世記2章20~24節のアダムとエバの結婚は肉と肉との結婚であった。これは神様が選び、見合わせて結んで下さった結婚だった。
イエス様はこの結婚に対して「神様が合わせられたものを人は離してはならない」と仰った。(マタ19:6、マルコ10:9)
もし、人がこの二人を分けようとするとその人は神様とイエス様とその御言葉を信じない人であろう。
● 霊的な結婚
神様はエジプトにあるイスラエルをカナンへ導かれ、「わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破った」 主は仰った。(エレ31:32)
この御言葉から神様は夫でイスラエルは新婦の立場だと分かる。 神様がホセア先知に「わたしは永遠にあなたと契りを結ぶ」と預言なさった通りイエス様に来られてイエス様は神様と一つであると仰った。(ホセ2:2~20、ヨハ10:30)
このことについてパウロはガラ4章で「上なるエルサレムは、自由の女であって、わたしたちの母」とも表現した。また、神様の御霊とわたしたちの魂と一つになることを結婚なのだと仰った。

神様がイエス様に来られたのはイエス様に罪がないからだった。人の罪のせいで離れて行ってしまった(創6章)神様は罪人の中に居られることが出来なかった。この罪を解決するため、イエス様を送って、私たちの罪を変わりに購ったことで罪が解決された。私たちの罪が解決されたことで、やっと御霊がわたしたちに来られるようになった。(使2:1~4)イエス様が十字架に掛けられた理由は二つである。一つは私たちの罪を解決するためで、もう一つは罪を解決してから私たちの中に居られるためである。これは御霊とわが肉体が一つになることである。こういう内容は聖書のあちこち(ローマ8:9~11、ヨハ14:20、啓14:20、啓3:20、ガラ4:6、ガラ2:20)に約束されてある。これが新約の霊肉結婚なのだ。
出所 : http://cafe.daum.net/scjschool

[신천지] 神様と悪魔の民

本当に正しく分かりましょう。新天地

この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。

神様と悪魔の民

善行は神様に属されている人のすることで、悪行は悪魔に属されている人のすることである。聖書の言葉は、すたることがあり得ない(ヨハ10:35)、イエス様は ‘わたしの語ったその言葉が終わりの日にその人をさばくであろう’と仰ったので(ヨハ12:48)誠と偽りに対した審判は新約聖書に書かれてあるイエス様の御言葉でさばかれる。

○ 書かれてあるエス様の御言葉

( マタ 5:10-12 ) 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。*わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。*あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
(マタ7:1-5 ) 人をさばくな。自分がさばかれないためである。 *あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。*なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。*自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせて下さい、と言えようか。*偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
(マタ 5:44 ) しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(ヨハ15:18-19) もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。*もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世はから選び出したであろう。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
( マタ6:11-12 ) わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。*わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
(マタ6:15 ) もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

イエスを信じる者はイエスの戒めを守るはずで、悪魔に属されている人はイエス様の御言葉を信じても守らない、批判や推し量り、迫害をしたり、嘘をついたり、呪いと悪口を浴びせたりするであろう。このようにその実でその人所属が分かる。神様もイエス様も罪人のため、代わりに十字架を負って下さって、取税人と罪人と共に食べて、飲んで、彼らの友達になって下された。 (マタ 9:11-13, マタ 11:19) わたしたちが神様より、イエス様より、高くて神々しいのか?イエス様のように許しあってお互いに愛しましょう。そしてキリスト教を愛しましょう。また、真理を習いましょう。
(啓 20:12-13 ) また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
(マタ 12:34-37 ) まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。
(イザ65:5-6) 言う、「あなたはそこに立って、わたし近づいてはならない。さたしはあなたと区別されたものだから」と。これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。見よ、この事はわが前にしるされた、「わたしは黙っていないで報い返す。そうだ、わたしは彼らのふところに、彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す」
( エレ6:10 ) わたしはだれに語り、だれを戒めて、聞かせようか。見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない。

● 神様に属された人と世に属された人

( 1ヨハ4:5~6) 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしからの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。
(ヨハ 3:31~34) 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。彼はそのみたところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受け入れない。しかし、そのあかしを受け入れる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
イエス様が罪人を愛し、血を流して下さったように、私たちもお互い愛し合い、許し、救う人になろう。これが救いの道ある。

出所 : http://cafe.daum.net/scjschool

[신천지] 神様と悪魔の民

本当に正しく分かりましょう。新天地

この内容は教会や聖徒の信仰知識のために共益的な目的で聖書を根拠として書いたものです。また、この内容は教会や聖徒たちの真信仰のため「あなたがたは、然り、然り、否、否と言いなさい」と仰せられたイエス様の御言葉(マタ5:37)を根本として書いたのです。

神様と悪魔の民

善行は神様に属されている人のすることで、悪行は悪魔に属されている人のすることである。聖書の言葉は、すたることがあり得ない(ヨハ10:35)、イエス様は ‘わたしの語ったその言葉が終わりの日にその人をさばくであろう’と仰ったので(ヨハ12:48)誠と偽りに対した審判は新約聖書に書かれてあるイエス様の御言葉でさばかれる。

○ 書かれてあるエス様の御言葉

( マタ 5:10-12 ) 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。*わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。*あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
(マタ7:1-5 ) 人をさばくな。自分がさばかれないためである。 *あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。*なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。*自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせて下さい、と言えようか。*偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
(マタ 5:44 ) しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(ヨハ15:18-19) もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。*もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世はから選び出したであろう。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
( マタ6:11-12 ) わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。*わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
(マタ6:15 ) もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

イエスを信じる者はイエスの戒めを守るはずで、悪魔に属されている人はイエス様の御言葉を信じても守らない、批判や推し量り、迫害をしたり、嘘をついたり、呪いと悪口を浴びせたりするであろう。このようにその実でその人所属が分かる。神様もイエス様も罪人のため、代わりに十字架を負って下さって、取税人と罪人と共に食べて、飲んで、彼らの友達になって下された。 (マタ 9:11-13, マタ 11:19) わたしたちが神様より、イエス様より、高くて神々しいのか?イエス様のように許しあってお互いに愛しましょう。そしてキリスト教を愛しましょう。また、真理を習いましょう。
(啓 20:12-13 ) また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
(マタ 12:34-37 ) まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。
(イザ65:5-6) 言う、「あなたはそこに立って、わたし近づいてはならない。さたしはあなたと区別されたものだから」と。これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である。見よ、この事はわが前にしるされた、「わたしは黙っていないで報い返す。そうだ、わたしは彼らのふところに、彼らの不義と、彼らの先祖たちの不義とを共に報い返す」
( エレ6:10 ) わたしはだれに語り、だれを戒めて、聞かせようか。見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない。

● 神様に属された人と世に属された人

( 1ヨハ4:5~6) 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしからの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。
(ヨハ 3:31~34) 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。彼はそのみたところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受け入れない。しかし、そのあかしを受け入れる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。
イエス様が罪人を愛し、血を流して下さったように、私たちもお互い愛し合い、許し、救う人になろう。これが救いの道ある。

出所 : http://cafe.daum.net/scjschool

2008년 4월 28일 월요일

宗教と教主

宗教と教主

新旧約聖書に書かれてある内容は誰のことなのでしょう。宗教とは?宗教の教主は誰なのでしょう。何故、世の知識では書かれてある御言葉の意味が分からないのか。信じる人と信じない人の結果はどう違うのか?

宗教とは「一番の教育」という意味である。 すると、宗教は誰が作った事なのか?
宗教は神(御霊)が作った事である。その証拠はヨハネ1章1~2節である。そして宗教の教主は創造主である神様なのだ。これはカトリック教会を天主教と呼ぶのと同じである。宗教人に教主という呼び方をするのは不法で、非真理になる。新しく興る教会も伝統教会も教会の代表が教主になるわけにはいかないのだ。イエス教はイエスが教主という意味で天主教は天主が教主になるわけだ。
異端は大体相手のことを迫害するため、教主という名称を使っているのだ。しかし、その言葉を使っている方こそ自分が異端で、非真理の人であることを自ら現せたことになる。
その譬でぶどう園の主人からぶどう園を任されたとして、ぶどう園の主人になれるわけにはいかない。「大韓イエス教○○教会」と看板を掛けることでこの○○教会の主人、即ち教主はイエス様になる。イエス教と説明しているのにも関わらず、その教会の担任に教主と名付けるのでしたら、それはそう言っている方が偽信仰人であることを分からなければならない教会代表、担任、牧師、長老など或いは名前で呼ばなければいけない。教会と聖徒は神(御霊)の御心通りしなければならない。 これが神様を信じる信仰である。

人が世の中の知識が多いのだとして、書いてある神様の書物の御心が正しく悟られるのではない。神が預言したのはその神が成し遂げることであり、その神が預言したことはその神が成し遂げた後、それを知らせてくれることで分かるようになる。 多くの経書内容中には歴史、教訓、預言、成就などが書かれてあり、この中で預言はまだ成就されていないことなので成し遂げる時があるのだ。前もって、書かれた御心は事が起こった時にあなた方が信じるためである。(ヨハ14:29)