2008년 4월 28일 월요일

宗教と教主

宗教と教主

新旧約聖書に書かれてある内容は誰のことなのでしょう。宗教とは?宗教の教主は誰なのでしょう。何故、世の知識では書かれてある御言葉の意味が分からないのか。信じる人と信じない人の結果はどう違うのか?

宗教とは「一番の教育」という意味である。 すると、宗教は誰が作った事なのか?
宗教は神(御霊)が作った事である。その証拠はヨハネ1章1~2節である。そして宗教の教主は創造主である神様なのだ。これはカトリック教会を天主教と呼ぶのと同じである。宗教人に教主という呼び方をするのは不法で、非真理になる。新しく興る教会も伝統教会も教会の代表が教主になるわけにはいかないのだ。イエス教はイエスが教主という意味で天主教は天主が教主になるわけだ。
異端は大体相手のことを迫害するため、教主という名称を使っているのだ。しかし、その言葉を使っている方こそ自分が異端で、非真理の人であることを自ら現せたことになる。
その譬でぶどう園の主人からぶどう園を任されたとして、ぶどう園の主人になれるわけにはいかない。「大韓イエス教○○教会」と看板を掛けることでこの○○教会の主人、即ち教主はイエス様になる。イエス教と説明しているのにも関わらず、その教会の担任に教主と名付けるのでしたら、それはそう言っている方が偽信仰人であることを分からなければならない教会代表、担任、牧師、長老など或いは名前で呼ばなければいけない。教会と聖徒は神(御霊)の御心通りしなければならない。 これが神様を信じる信仰である。

人が世の中の知識が多いのだとして、書いてある神様の書物の御心が正しく悟られるのではない。神が預言したのはその神が成し遂げることであり、その神が預言したことはその神が成し遂げた後、それを知らせてくれることで分かるようになる。 多くの経書内容中には歴史、教訓、預言、成就などが書かれてあり、この中で預言はまだ成就されていないことなので成し遂げる時があるのだ。前もって、書かれた御心は事が起こった時にあなた方が信じるためである。(ヨハ14:29)

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